Windows HeartBeat #1(1993年7月)
日本語MicrosoftWindows3.1登場

 1991年8月12日、月曜日。 シアトル最大の劇場 5th Avenue Theater にはTシャツにGパン姿の2000人のプログラマが全米から集まった。 朝8時、頭のはげあがった大男が壇上に現れ、「Microsoft Windows3.1 Developper Conference」の開会を宣言した。 当時、システム部門担当の上級副社長であった Steve Ballmer である。

 「3.1は3.0をサンドペーパーで研いたもの。ぼくの頭のようにピカピカになったよ!」とおどけてみせる Ballmer 副社長の説明の通り、Windows3.1は米国で大ヒットとなった3.0をブラシュアップしたものである。
 アプリケーションプログラム間のデータのやり取りを規定した OLE や DDEML。 アウトラインフォントのデータ形式を規定し、フォントのラスタライザ(描画処理部)をWindowsシステムの内部に組み込んだ TrueType。 ユーザインタフェースの向上と標準化を目的とした Common Dialog と Drag&Drop など派手な機能強化は当時、日本でも話題となった。

 もっとも、OLE、CommonDialog、Drag&Drop は、Excel や Word などのマイクロソフト社内のアプリケーション開発部隊が作っていた機能を、「OS側」に移したものだし、DDEML は今までのややこしくて面倒だったDDEのやりとりを、やっぱり面倒程度にマネージメントしてくれる。 TrueTypeもマイクロソフトにしては珍しく、アップルとフォーマットを合わせるという大英断で話題になったが、これもPostScriptでのアドビの力を過大評価した結果の産物で、マイクロソフトらしさが感じられない代物となっている。

 コンファレンスでは、このようなプログラムインタフェースやユーザインタフェースの改良のほか、性能の向上そして信頼性の向上が強調された。確かにオペレーティングシステムの要件として、信頼性や性能は最重要項目である。「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)よ、さようなら」がWindows3.1のキャッチフレーズとなっていたが、良く考えると当然の話である。アプリケーションのエラーで動きが止まってしまうOSなど安心して使えない。ユーザの裾野が広がったため、DOSではあたりまえのアプリケーションエラーが、Windowsでは重大な問題となってしまう。Windows3.1を使い始めると、3.0のファイルマネージャなど、よくもこんな使いづらいソフトを標準提供していたものだとあきれてしまう。Windowsも、やっと3.1で本物のオペレーティングシステムになった。

 このコンファレンスから約2年が経過し、この度めでたく日本でもWindows3.1が登場した。米国版のWindows3.1に対してどのようなLocalize(日本語化作業)が行なわれたのか検証してみよう。先ず誰もが思いつくのは「メッセージの日本語化」である。この作業を日本のマイクロソフトは、単なる翻訳ではなく根本的な見直しから行った。日本語のメッセージはいかにあるべきかという議論からスタートさせ様々な試行錯誤の末、現在のメッセージに落ち着いた。3.1の日本語メッセージについては、これから各方面で議論されることになると思うが、マイクロソフトは理論武装を完了している。

 「漢字TrueTypeフォントの作成」も難題であったと思う。1書体でアルファベットの100倍以上のデータ量を持つ漢字アウトラインデータを、明朝体、ゴシック体の2書体用意するにはたいへんな労力を要したはずである。米国では TrueType vs. ATM の戦いの雌雄が決した感があるが、日本はこれでやっと TrueType、ATM、WIFE の三役揃い踏みが終わった。戦いはこれからである。

 「プリンタドライバの作成」では、マイクロソフトのWindows3.1に対する真剣さを読み取ることができた。今までのWindows環境では、プリンタへの印刷がうまくいかない場合、誰に問い合わせたら良いのかすら分からない状態であった。プリンタメーカに電話するとアプリケーションソフトのせいだと言われ、アプリケーションメーカに電話すると「プリンタドライバ」という意味不明の言葉を発して責任の所在があいまいになることがあった。プリンタドライバが標準添付され、新しいドライバを逐次提供するWDL(WindowsDriverLibrary)という仕組みが整備されたことにより、「責任者は私です」とマイクロソフトが言える体制が作られた。

 表面には表われないが、いちばん苦労したのは「QA作業」つまり品質を保証するための試験であったと思う。米国のWindowsパソコンのアーキテクチャは基本的には IBM PC 1つしかない。 ところが日本ではパソコンメーカ毎にアーキテクチャが違い、キーボードレイアウトや漢字ROMの文字セットに至っては、1メーカの1シリーズだけで5、6種類が存在するものまである。その上、プリンタメーカやそこで販売されている機種、シリーズも多岐に渡り、ページプリンタのコマンド体系は、もののみごとに違っている。 それらをWindows OSの下位部分であるドライバで吸収し、その稼働確認を行う作業は、たぶん米国の数倍の労力が必要であったであろう。Windowsのオペレーティングシステムの特徴として、7、8年前のバージョン1.0の頃から強調されていた「デバイス独立」というコンセプトは、日本市場のために考えられたもののように思えてくる。

 ACT(Application Compatibility Test)という、ユーザに対して、Windows対応のアプリケーションであることをソフトハウスが保証し、マイクロソフトがそれを認定する仕組みも米国同様に整備された。
 Windows自体の供給ルートも3.0までのOEM提供に加えて、米国同様マイクロソフトブランドでの販売が開始され、その面でも責任の所在が明確になった。「これからは文句の言い甲斐がある」ということで、このコラムを担当することになった。


#2「歩く日本、翔ぶアジア」